beach-863346_1280


1: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)08:59:35 ID:w70
日本初の本格的な侵略なのに史料なさすぎじゃね?

元寇

元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時モンゴル高原及び中国大陸を中心領域として東アジアと北アジアを支配していたモンゴル帝国(元朝)およびその属国である高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/元寇
Mōko Shūrai Ekotoba



2: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)09:01:12 ID:5go
史料ないの?
現代のワイらが知っているのは口伝なんか?

3: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)09:01:51 ID:w70
>>2
神風があったのかなかったのか確定できないから論争になるんじゃね?

元寇の神風

文永・弘安の役での2度にわたる元寇で元軍に大損害を与えた暴風雨のこと。

元寇の第一回目の文永の役(ぶんえいのえき)では、元側の史料『高麗史』によると、博多湾から上陸した元軍は日本軍の激しい抵抗を受け、副司令官である左副元帥・劉復亨が負傷するなど苦戦したため、元軍総司令官である都元帥・忽敦(クドゥン)は「孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』とあって、少数の兵(元軍)が力量を顧みずに頑強に戦っても、多数の兵力(日本軍)の前には結局捕虜にしかならないものである。疲弊した兵士を用い、日増しに増える敵軍と相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきである」と述べ、元軍は撤退することに決したとされる。危険な夜間の撤退を強行した元軍はその撤退道中に暴風雨に遭い、朝鮮半島の合浦に帰還した時には、13,500余人の不帰還者を出していた。

二回目の元寇・弘安の役(こうあんのえき)では、元軍は日本軍の猛攻(志賀島の戦い・壱岐島の戦い・鷹島沖海戦)で苦戦を強いられ、二ヶ月近く海上に停滞していたまま台風に遭い、大損害を出して混乱したところを日本軍の総攻撃を受けて、壊滅した(御厨海上合戦・鷹島掃討戦)。元軍の捕虜は2、3万にも達した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/元寇の神風

4: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)09:03:08 ID:w70
あと一騎打ちや名乗りしたとかしてないとか
鎌倉武士が強いとか弱いとか
説にょって言われてること変わりすぎじゃね?

5: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)09:08:34 ID:uQ3
元寇についてよく参考にされてた八幡愚童訓
歴史史料ではなく神様の霊験を説く宗教的なものなので
最近はそのあたりで疑問視する声もある
神様のおかげで勝ったとするためには鎌倉武士の活躍はまあね

8: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)09:11:18 ID:trp
台風のおかげにしたい幕府さんサイドと
自分たちの力のおかげにしたい武士さんサイドの伝聞の違いやで

10: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)09:12:33 ID:uQ3
>>8
寺社「ワイらの祈祷のおかげやぞ」

12: ■忍【LV31,ダースリカント,BD】 20/04/26(日)09:18:40 ID:SpZ
生き延びたのってどのくらいいるんやろか

31: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)10:13:16 ID:9NI
>>12
なお高麗史によれば文永の役に参加した高麗人は高麗軍八千、船員六千七百の合計一万四千七百人で、
不還者は一万三千五百余…
文永の役の高麗軍は一万四千七百人のうち千二百人未満しか帰って来なかったことになるんか…?

15: ■忍【LV31,ダースリカント,BD】 20/04/26(日)09:25:21 ID:SpZ
秋だと常に強風波浪注意報出てるような地域だし当時の船の技術でも難所だったんだろうなと思ってる
風向と波向が違ったりうねりが入って来たりで大変そう

71: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)16:49:41 ID:PTd
>>15
まあ台風じゃないレベルでも昔の船でホイホイ気軽に行き来できる所じゃないわな
元寇の後だったか、何度目かの元の使者にも台風で引き返した人もいるし

20: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)09:43:06 ID:wv5
神風が吹いたから勝てたんや!だから褒章なしな!
っていう鎌倉幕府の方便とも言われてるぞ

30: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)10:11:11 ID:9NI
神風がなかった説があるのは文永の役
11月後半という時期的にも台風の可能性は、皆無ではないがかなり薄い(11月も稀に台風は来る)
ただ高麗史には「大風雨」があって戦艦が崖に接触したとか、左軍使が溺死したという記述はあるんで、
台風ではないが暴風雨はあったんやないか
ただし同じ高麗史の軍議の記述を読むと、撤退はその前に決定している様子

32: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)10:19:55 ID:w5o
少弐資能とかいうやべージジイすこ

少弐資能

少弐 資能(しょうに すけよし)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将・御家人。少弐氏2代当主。資能は北九州に大きな勢力を持ち、幕府の鎮西奉行として、文永5年(1268年)、蒙古の使者の対応にも当たっている。文永の役直前に出家して覚恵と号し家督を長男・経資に譲ったが、老齢の身でありながら自身も対元の総司令官として参戦し、元軍の侵攻を阻止し撃退することに成功する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/少弐資能

50: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)11:22:08 ID:P5x
>>32
息子の副司令官もなかなか
元軍の副司令官を射落として落馬させとる

38: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)10:39:01 ID:6x7
フビライが「艦隊で神戸に直接上陸」とかいいだしたのを「まず博多だろJK」と言っただけなのを主戦論は無理がある

39: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)10:43:48 ID:9NI
>>38
クビライは1268年にはもう宋と日本を討つとかいうとるんや
この頃はまだ、はじめて日本に来てクビライの国書届けた使者が日本にいる時期やから
まだ日本との交渉中のその最初期や


55: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)11:33:18 ID:k0h
>>38
神戸って瀬戸内海に面しとるんやけど
わざわざ瀬戸内海入って上陸するんか?

ってか瀬戸内海や中国地方の地形知らんやろし無理やろ
九州だけは元寇直前に偵察しまくって帰ってった使者がおったから知られとったみたいやけど
その使者もその前の使者もみんな九州で止められとるから他の所しは偵察しとらんやろし

41: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)10:45:34 ID:QGL
名乗り邪魔されて鎌倉武士共がガチギレしたのが真相やろ

43: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)10:54:41 ID:wv5
>>41
名乗りは別に見栄とかしきたりとかじゃなくて
名乗っとかないと誰が打ち取ったかわからなくて褒章くれないという現実的な理由らしいな
それだけ鎌倉の幕府と武士の信頼関係が崩壊してたってことでもある

42: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)10:53:41 ID:wv5
1(中) 壱岐対馬は最初から見殺して相手の戦法を見極めてた
2(二) 既に出兵5か月前に出兵の時期を想定し鎌倉武士団を大宰府に展開してた
3(一) 相手が人質を楯にして攻めてきても関係なく矢を射かけまくってた
4(三) 2度目は30キロの防塁を沿岸に、20キロの空堀を博多の南に、10キロの水堀を大宰府に築いていた
5(遊) 博多が略奪されてるのは目に見えてるので、敵が来る三日前に博多を略奪しつくしてた(鎌倉武士団が)
6(右) 2度目の時はモンゴルに倣って人質を楯にして攻撃してた
7(左) てつはうにあんまり動じずそのまんま徒歩で戦ってた
8(捕) 2度目の時は夜襲しまくって眠らせなかっただけじゃなく相手の船に牛馬の腐乱死体を積極的に投げ入れてた
9(投) 元軍が壊滅した後、取り残された元軍の内、宋人は助命したが高麗人、モンゴル人は負傷者も女性も含めて皆殺しにしてた

46: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)10:55:41 ID:L8T
>>42
なおほとんど出典なしのもよう

56: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)11:35:00 ID:F7f
サンキュー八百万の神々

57: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)11:47:36 ID:Q7Q
双方に文献のこっとるし
そもそも海底に死体あるやん
あのとんがり棒みたいな兜も船も沈んどって済州島とかの海底にも大量にあるらしいで

59: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)11:49:29 ID:k0h
>>57
死体って流石にもう残ってへんのやない?
沈没船はまだあってたまに調査されとるらしいけど

62: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)11:55:34 ID:f5P
https://www.youtube.com/watch?v=kFFx2Ewt434



意外と残ってるもんやね

90: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)22:23:42 ID:wNt
>>62
意外と状態ええなあ
ロマンやわ
堆積物から掘り出したらどんな風になっとるんやろ

64: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)12:00:17 ID:iia
ボコボコにして返り討ちしまくってたら海が荒れとるから…って帰って行ったあれやろ?

67: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)14:05:48 ID:qqk
>>64
まあ実際文永の役も弘安の役も船がぶっ壊れる程度の風は吹いてたみたいやし
むしろ弘安の役はなんで二か月も粘ってたんや
そんなに経つ前にさっさと退却しとけば台風にもあわずに済んだやろ

88: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)22:05:30 ID:7eh
>>64
最初に日本行ってこいと送り出された使者も、
海が荒れとるの見て怖がって日本に行かずに帰ってしもたんよなあ
クビライは怒ってまた使者を行かせたんやけど、
その時にそれくらい海ヤバイことに注目しておくべきやったな

72: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)16:56:26 ID:E5U
no title

78: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)17:33:11 ID:6ja
モンゴル帝国はペストで滅びたんだっけ

85: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)21:47:02 ID:7eh
>>78
元寇の時はペスト感染大丈夫だったんやろか
戦闘でも組み打ちになったら接触しまくるし捕虜もおったし

89: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)22:13:08 ID:wNt
>>78
それと元寇の頃もそうやけど反乱やら身内の争いやらあったからなあ
それも三回目の元寇が中止になった理由のひとつやとも、
三回目の元寇のために無理させられたのが反乱の理由になったとも言われとるし

まあほんまはクビライは国内にも国外にも臣下にも身内にも敵やら敵になりえる危険分子とか抱えとって
遠い日本なんかに不要不急の侵略してるほど余裕なかったんやろなあ
ほんまなんで無理して日本に攻めてくんねん
それどころやないやろと

84: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)19:58:38 ID:IEy
>>78
ベトナムも戦争では勝っとるしなあ
おかげで三回目の元寇流れたわ

48: 名無しさん@おーぷん 20/04/26(日)11:12:44 ID:P5x
大陸で地続きで何十年も前から戦争しとって色々因縁もできとる南宋はともかく
なんで日本まで討ちたいんや
しかも一回目の時にはまだ南宋との戦争の途中なのに日本にまで手出しとる場合やなくね
クビライって暇なんか欲深いんか

引用元: ・https://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1587859175/