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4: 風吹けば名無し 2020/04/02(木) 19:29:00.46 ID:0B6znGXRd
じゃあ10位から発表や



6: 風吹けば名無し 2020/04/02(木) 19:29:26.46 ID:0B6znGXRd
10位【黒田忠之】

黒田長政の息子。
長政は彼の狭量さに気づいており、絶縁した上で百姓か商人か出家するか選べと迫ったという。
後見役の栗山大膳が命がけでこれを阻止したが、長政の死後は口うるさい栗山を迫害。
家臣団の対立も激化してお家騒動に発展。これも栗山が全ての責任を負うことで、改易は免れた。

49: 風吹けば名無し 2020/04/02(木) 19:42:03.67 ID:+ZIQxHDd0
>>6
長政もまたべえとそりが合わんで放逐しとるし親子やな

8: 風吹けば名無し 2020/04/02(木) 19:29:51.61 ID:0B6znGXRd
9位【津軽信順】

弘前藩津軽家10代目。
この当時の弘前藩は財政難で苦しんでいた。
先々代の藩主はそれなりに有能であったが、父親である先代は加増を伴わない高直しで経費が膨らみ、重税などでカバーしようとしたため一揆を起こされる有能とはいえない藩主であった。
その息子の信順は父親以上の暗君で、参勤交代は酒と女に入り浸って期日に遅れる、贅沢三昧で遊び惚けるなど奢侈の限りを繰り広げた。
このため弘前藩の負債も莫大なものとなってしまい、これには幕府も捨ててはおけず、強制隠居をさせられる羽目になってしまった。

9: 風吹けば名無し 2020/04/02(木) 19:30:15.67 ID:0B6znGXRd
8位【南部利済】

盛岡藩南部家12代目。
この当時の盛岡藩は加増を伴わない高直しによる負担増や凶作などによって苦しめられていた。
利済も当主の座につくと藩政を立て直そうとしたが失敗、経済振興のために盛岡に遊郭を建設したことが反感を招き、重税を課す一方で贅沢に走ったことから三陸地方を中心としたエリアで一揆を起こされてしまう。
その責を取る形で隠居して長男に後を譲ったものの、仲が悪かったことから圧力をかけて引退に追い込み、その弟を藩主にすることによって院政を敷いた。
が、また、一揆を起こされてしまい結局は幕府に呼び出されて江戸城下で謹慎させられる羽目になった。

10: 風吹けば名無し 2020/04/02(木) 19:31:02.07 ID:0B6znGXRd
7位【池田綱政】

岡山藩池田家4代目当主。
岡山の後楽園を作った人物で、有能な家臣に任せて新田開発や河川の改修を行うなど岡山藩の財政を回復させた、といえば実績的には名君なのだが、
その内実は幕府隠密の報告書や親族の日記から「生まれつきバカ」「愚か者で分別がない」「特に色を好むことには限度がなく、手当たり次第に女に手を出した」と散々な評価。
実際に70人以上の子供を作っている。
遺言で「公家のコスプレで葬ってくれ」といい残すなど、のそのキャラを一言で言い表すなら「光源氏に憧れ続けた」といっても過言ではなく、
四書五経といった当時の学問には目もくれず、ラノベ的な文学や源氏物語の世界に耽溺した人生を送った。
その評価の割には政治がうまくいったのも父親が残した有能な家臣に丸投げしたからに他ならない。

13: 風吹けば名無し 2020/04/02(木) 19:31:57.56 ID:0B6znGXRd
6位【浅野長矩】

「浅野内匠頭」としていわずとしれた忠臣蔵の赤穂藩藩主。
忠臣蔵の影響で美化されがちではあるが、理由はどうあれ、仕事の最中に発作的に衝動を起こして上役を斬りつけるという行為は立派にDQNである。
家臣達を路頭に迷わせてしまっただけではなく結果、最終的には死なせてしまった(後世に英雄として語り継がれるとは言え)のだから罪作りな人物である。
同時代の史書にも「実は女好き」(wikiでは否定されていたが)はともかく
「神経質で民に厳しく、奥方の下女に非道を働いたので近いうちに改易されるだろう」と書かれていたのだから、忠臣蔵を鵜呑みするのも危険だろう。

52: 風吹けば名無し 2020/04/02(木) 19:44:24.59 ID:a8JJHP7Ta
>>13
内匠頭はほんまのガイジやったって話聞いたことあるな

14: 風吹けば名無し 2020/04/02(木) 19:32:30.04 ID:0B6znGXRd
5位【加藤明成】

加藤嘉明の息子。
年貢にも利息をつけ、商人からも売り上げを巻き上げるというジャイアンとスネ夫が合体したような暴政を敷く。
見限った家臣が幕府に報告することを恐れて徹底粛清。
しかし、かえってバレてしまいあえなく改易。

15: 風吹けば名無し 2020/04/02(木) 19:32:55.32 ID:0B6znGXRd
4位【真田信利】

沼田藩初代当主。真田信之の孫。
本家を継げなかったトラウマからか、表高3万石のところを高直しで14万石として申告。
江戸の藩邸も豪奢な物に造り替えるなどして領民は重税にあえぎ窮乏していった。
両国橋の改修を請け負ったものの納期に間に合わなかったことがきっかけで悪政が判明。
改易という処分が下されることとなった。


16: 風吹けば名無し 2020/04/02(木) 19:33:44.02 ID:0B6znGXRd
3位【本多政利】

大和郡山新田藩藩主、本多忠勝の曾孫。
実父の本多政勝は15万石の本多家宗家を継いでいたが本来は傍系、先代が死んだ時、その実子が幼児で本多家には「幼君が後を継いではならない」という忠勝の遺訓があったため代わりに相続したものである。
このため、後継は先代の子である政長に決まっていたが、当然のことながら実子の政利に継がせたいと思っていた。
政勝が死ぬと、政利は幕閣への工作を開始。
その結果、9万石を政長に、6万石を政利に分割相続させるという判定が下された。
これが世に言う「9・6騒動」であったが政利は全てを継げなかったことに不満で事もあろうに、その政長を毒殺したと伝えられている。
しかし、それでも9万石は継げなかった。
その後の政利は転封を繰り替えすが領民へ家臣への暴虐といった悪政によって改易となり、幽閉されて生涯を閉じることとなった。

17: 風吹けば名無し 2020/04/02(木) 19:33:50.77 ID:6ZR3/Hrn0
親は結構有名やな

19: 風吹けば名無し 2020/04/02(木) 19:34:26.37 ID:0B6znGXRd
2位【松倉勝家】

島原藩松倉家2代目。
父の重政は島原に着任すると禄高4万3千石でありながら10万石相応の城(島原城)を建てる、領内の石高を倍以上に見積もることによって過大な税を取り立てる、キリシタンに過酷な刑罰を追わせる、
更にはキリシタンを根絶やしにするためにルソン(フィリピン)遠征を企てるといった事から司馬遼太郎に「日本史の中で松倉重政という人物ほど忌むべき存在は少ない」と言わしめた人物である。
その息子である勝家も父親以上の悪党であった。
凶作にも関わらず重税を取り立てる、人頭税や住宅税といったありとあらゆるものに税を設けて厳格に取り立てるといった、考えうる限りの手段で民を搾り尽くした。
更には年貢が納められない農民たちから妻や娘などを人質に取り、収められなかった時には人質達に蓑を着せて火をつけ、もがき苦しませながら焼死させたともいう。
圧政に耐えかねた民衆の怒りが島原の乱となって爆発。
鎮圧はされたものの悪政の責任を取らされる形で改易の上、斬首された。
武士の最後の名誉である切腹すらも許されなかった事実が、どれだけ重大な罪であったかということを物語っている。

22: 風吹けば名無し 2020/04/02(木) 19:35:19.82 ID:0B6znGXRd
1位:【宮部長房】

宮部継潤の息子。
関ヶ原において判断ミスの連続で、東軍→西軍というウルトラCな裏切りを行う。

33: 風吹けば名無し 2020/04/02(木) 19:37:14.09 ID:daVnkemya
>>22
親父は有能やったのに
数少ない島津特攻持ちなのに
なお地味

宮部継潤

宮部 継潤(みやべ けいじゅん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。武勇に優れた一面もあり、長政に従って織田信長との戦いで活躍し、横山城の城将であった羽柴秀吉と対峙したが、元亀3年(1572年)10月、秀吉の調略に応じてその与力となった(『浅井三代記』)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/宮部継潤

26: 風吹けば名無し 2020/04/02(木) 19:36:05.82 ID:0B6znGXRd
これは異論反論無いランキグンやろ

29: 風吹けば名無し 2020/04/02(木) 19:36:48.56 ID:526FFKBm0
なんで寺沢堅高が入らんの?

寺沢堅高

寺沢 堅高(てらざわ かたたか)は、江戸時代前期の大名。肥前国唐津藩2代藩主。寺沢広高の次男。島原の乱を発生させる原因の一部を作った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/寺沢堅高

30: 風吹けば名無し 2020/04/02(木) 19:36:50.27 ID:0o0YN9gg0
加藤忠広が入ってないやん

加藤忠広

加藤 忠広(かとう ただひろ)は、江戸時代前期の大名。肥後熊本藩の第2代藩主。

父の清正と違って暗愚だったという。ある夜、老臣の飯田直景を呼んで「わしは力を持ちたいと思う。十人力もあれば、重い鎧が2着は着られる。それならば矢や弾丸も決して通さないだろう」と述べた。飯田は「父君の清正公は薄い鎧を着て多くの合戦に出て、一度も怪我などされませんでした。それに用心しても運命次第で怪我などします。そのような力など必要ございません」と諫めた。飯田は退出後「これでは加藤家も末よ」と嘆いたという(神沢杜口の『翁草』)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/加藤忠広

35: 風吹けば名無し 2020/04/02(木) 19:37:27.61 ID:QeuIv617a
最上義光の息子もなかなか酷かった気が

51: 風吹けば名無し 2020/04/02(木) 19:43:18.05 ID:526FFKBm0
金森頼錦なんかも入っていいやろ

金森頼錦

金森 頼錦(かなもり よりかね)は、江戸時代の美濃八幡藩の第2代藩主。享保21年(1736年)の祖父の死去により家督を継ぎ、兵部少輔に改めた。延享4年(1747年)奏者番に任じられ、藩政では目安箱を設置したり、天守に天文台を建設するなどの施策を行った。

頼錦の任じられた奏者番は、幕閣の出世コースの始まりであり、さらなる出世を目指すためには相応の出費が必要であった。頼錦は藩の収入増加を図るため、宝暦4年(1754年)、年貢の税法を検見法に改めようとした。結果、これに反対する百姓によって一揆(郡上一揆)が勃発した。さらに神社の主導権をめぐっての石徹白騒動まで起こって藩内は大混乱し、この騒動は宝暦8年(1758年)12月25日、頼錦が幕命によって改易され、陸奥盛岡藩の南部利雄に預けられるまで続いた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/金森頼錦

53: 風吹けば名無し 2020/04/02(木) 19:44:43.23 ID:xpffJ8ej0
酒で失敗したから己の墓に我が子孫は決して酒を飲むなって書かせたのは本多忠勝の子孫だっけ?

28: 風吹けば名無し 2020/04/02(木) 19:36:46.04 ID:XddtSAfx0
志村でもないんかい

引用元: ・https://swallow.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1585823280/