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1: きゅう ★@\(^o^)/ 2016/01/19(火) 12:52:46.94 ID:CAP_USER*.net
 キリスト教徒とイスラム教徒は同じ神を崇拝しているのか――。
この問いをめぐり、イリノイ州のウィートン大学でひと月にわたって論争が巻き起こった。


 同大学で政治学を教えるラリシア・ホーキンス准教授は昨年12月、交流サイト(SNS)のフェイスブックにある投稿をした。
そして、休職処分になった。その投稿とは、クリスマス前の「アドベント」と呼ばれる期間、頭にスカーフを着用していたというもので、「私はイスラム教徒と宗教的な連帯の中にいる。彼らは、私のようなキリスト教徒と同じように聖典の民なのだから」と書いた。
ウィートン大は先週、一連の話し合いの後でホーキンス氏の解雇手続きに入った。

 ウィートン大はキリスト教系の大学で、教職員は毎年、福音派プロテスタント教徒としての自覚を確認するため、信仰を約束する文書に署名することになっている。
ホーキンス氏がフェイスブックに投稿した翌日、大学はキリスト教とイスラム教の「根本的な違い」を強調した声明を発表。
その違いの中には「人類に対する神の啓示や、神の法、救済の道、祈りを捧げる人の生活に関する教えが含まれる」としている。
大学が後に説明したところによると、ホーキンス氏を休職扱いにしたのはヒジャーブ(イスラム教徒の女性が身につけるスカーフ)をかぶったことが理由ではなく、キリスト教徒とイスラム教徒が「同じ神を崇拝している」というコメントを含む「神学上の発言」が理由だと説明した。

 南部バプテスト神学校のアルバート・モーラー校長は自身のウェブサイトで、ウィートン大の措置を支持し、キリスト教徒は「三位一体の神」――父と子と精霊――を信仰していると指摘した。さらに「コーラン(イスラム教の教典)はイエス・キリストを神の子、かつ三位一体の2番目の神として認めることはアラー(イスラム教の神)への冒とくだと論じている」と記し、「子なる神を否定しつつ父なる神を真に信仰することはできない」と結論づけた。

 一方、異論もある。イエール大学のミロスラフ・ヴォルフ教授は米紙ワシントンポストに寄稿し、ホーキンス氏の処分は「イスラム教に対する敵意」であって、「神学や正統性」ではないと記した。同教授は2011年に行ったウィートン大での講演で、キリスト教とイスラム教が同じ神を崇拝していることをさまざまな方法で論じた人物だ。

 ホーキンス氏は教授陣の一角に残るべきだろうか。ウィートン大で教職員が署名する信仰の確約文書に同氏が単純に違反しているのかどうかは不明だ。
それに、神学に関する問題は複雑だ。祈りを捧げるときに、その祈りを誰が聞いているのかが問題なのだろうか。
それならば、一神教を信じるすべての人は、祈りを聞く神はただ一人しかいないという考えに同意しなければならない。
それとも、祈りを捧げる際に、誰を思い描いているのかが問題なのだろうか。そういうことなら、コンスタンティヌス大帝が紀元337年に死の床で洗礼を受けた際に思い描いた神と、現代のキリスト教徒が思い描く神が同じではないことを考えてみてほしい。

 イスラム教とキリスト教はともに、ただひとつの神を信じている。創造主であり、審判であり、預言者を通して話し、その言葉が聖典にまとめられている神だ。それでもこの2つの宗教は、同じ山の頂上へ続く2つの登山道というわけではない。
キリスト教徒はコーランにある神の啓示を信じていない。一方、イスラム教徒はイエスが神の顕現であると信じていない。

 ホーキンス氏はイスラム教徒への憎しみにあふれた議論に対し、独創的に反応したかったのかもしれない。それは立派なことだ。
米憲法修正第1条(訳注:言論の自由を保証)のもと、彼女には神について思っていることを信じる自由がある。
だが、ウィートン大学にも、キリスト教を信じる教育機関としてのアイデンティティーを守る自由がある。
米国は映画「スター・ウォーズ」の壮大な物語のほうが、イエスの情熱よりも広く知られているという国なのだ。

 キリスト教徒がイスラム教徒の信仰を完全に理解するために、懸命に努力すべきなのは疑いの余地がない。逆もまた真なりだ。
だが、複数の宗教や文化の共存を肯定する多元主義を装うこと、つまり、すべてのもしくは大半の宗教的な伝統が同じ真実に依拠していると装うことは、ウィートン大をはじめ、どこの言い争いにとっても解決にはならない。

http://jp.wsj.com/articles/SB11777697228475194531304581473070350203898