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1: 名無しさん@おーぷん 20/06/17(水)21:29:22 ID:v7d
友好を求めてるのになんで攻めてくんねん
ヤンデレかよ

3: 名無しさん@おーぷん 20/06/17(水)21:30:33 ID:aht
フビライ「日本ちゃん、仲良くしようや ちな逆らったら殺す」

時宗「なんやこいつ…」

4: 名無しさん@おーぷん 20/06/17(水)21:30:48 ID:A1R
義経説ってどうなん

8: 名無しさん@おーぷん 20/06/17(水)21:34:32 ID:CYq
>>4
それチンギス

義経=ジンギスカン説

義経=チンギスハン説(よしつね=チンギスハンせつ)は、モンゴル帝国の創始者で、イェスゲイの長男といわれているチンギス・ハーン(成吉思汗)(1155年以降1162年までの間 - 1227年8月12日)と、衣川の戦いで自害したという源義経(1159年 - 1189年6月15日)が同一人物であるという仮説、伝説である。信用に足らない俗説・文献が多く、源義経=チンギス・ハン説は否定されているが、関連する文献には信用・信頼できるものとできないものがあり、整理と注意を要する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/義経=ジンギスカン説

10: 名無しさん@おーぷん 20/06/17(水)21:35:20 ID:X7y
友好(上納金納めたら攻めないでやる)

40: 名無しさん@おーぷん 20/06/17(水)21:59:27 ID:r1f
>>10
高麗の歴史みとると金だけで済んだかも疑問なんよなあ
元寇でもやれ船作れ、やれ兵士出せ、やれ兵士の妻になる女出せと要求されまくりやし
しかも女はこの時以外にも度々要求されとるし、その捜し方も
家族が隠しても家に侵入して家人を責め立てまで見つけ出して連れてくとかまた惨いんよなあ

43: 名無しさん@おーぷん 20/06/17(水)22:24:52 ID:WGE
>>40
高麗がそそのかした説は違うんか?

46: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)00:01:49 ID:apJ
>>43
忠烈王は積極的に日本遠征に協力姿勢とってはいたけど、
それより先にクビライが日本攻める言うとるから、
唆したというか既に日本攻める気のクビライに賛同した感じ

11: 名無しさん@おーぷん 20/06/17(水)21:36:32 ID:r1f
いうほど友好的やったか?
最初の使者が持ってきた国書でもう高圧的な感じ出とるし、
その使者が帰国する前にはもう日本を討つ宣言しとるしで、
最初っから別に友好的でもないんよなあ

15: 名無しさん@おーぷん 20/06/17(水)21:39:58 ID:EyV
>>11
あいつらにとっての友好はワイらの下についたら優遇したるぞみたいなのやったんやろ

12: 名無しさん@おーぷん 20/06/17(水)21:37:07 ID:Xcq
時宗がいなければ今頃日本はモンゴルだったという恐怖

21: 名無しさん@おーぷん 20/06/17(水)21:42:34 ID:kOO
北条時宗「ハ~ン(笑)」

北条時宗

北条 時宗(ほうじょう ときむね)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第8代執権(在職1268年-1284年)。

鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれ、世界帝国であったモンゴル帝国(大元朝)の圧力が高まるなかで執権に就任。内政にあっては得宗権力の強化を図る一方、モンゴル帝国(大元朝)の2度にわたる侵攻を退け(元寇)、戦前までは日本の国難を救った英雄と評された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/北条時宗
Hōjō Tokimune

23: 名無しさん@おーぷん 20/06/17(水)21:46:44 ID:ott
一回目日本「余裕やんw」
二回目日本「危なかった…」

24: 名無しさん@おーぷん 20/06/17(水)21:47:08 ID:1Zz
>>23
2回目も余裕やったぞ

26: 名無しさん@おーぷん 20/06/17(水)21:47:55 ID:X7y
>>23
逆やで
1回目は備えが間に合わなくてちょっとヤバかった
2回目はちゃんと防御固めてて余裕やった

25: 名無しさん@おーぷん 20/06/17(水)21:47:18 ID:CYq
>>23
一回目は人数からしても威力偵察やったし

27: 名無しさん@おーぷん 20/06/17(水)21:49:12 ID:v7d
>>25
いうても南宋との戦争中に他国の威力偵察してどうするんやろなあ
偵察して攻め込む気やったとしても、南宋との戦争終わらんと本格的な侵攻はできんやんけ

29: 名無しさん@おーぷん 20/06/17(水)21:50:39 ID:1Zz
・威力偵察説
・対日外交の延長説
・南宋との関係を絶たせるために攻めてきた説
・硫黄説
色々とあるな


蒙古襲来の真実
北岡 正敏
ブイツーソリューション
2017-06-30


35: 名無しさん@おーぷん 20/06/17(水)21:52:33 ID:zMh
1000年で日本人だいぶ穏健になったんやな

36: 名無しさん@おーぷん 20/06/17(水)21:53:04 ID:v7d
>>35
やっぱ江戸時代が転機なんやろか

37: 名無しさん@おーぷん 20/06/17(水)21:53:09 ID:4YG
>>35
江戸時代と刀狩が原因なのでは戦国までは日本全国修羅の国やったし

49: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)00:06:21 ID:Hxh
>>35 >>37 なお黒船が台無しにした模様

41: 名無しさん@おーぷん 20/06/17(水)22:15:20 ID:CJ8
クビライの友好説って提唱したの誰なんやろ
近年よく取り上げられとるけど

44: 名無しさん@おーぷん 20/06/17(水)22:26:58 ID:5FD
フビライ「国交結んで仲良くしようや!お前が下やから逆らったらぶっ殺すで??」

?

47: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)00:03:59 ID:uLw
大帝王クビライ

クビライ

クビライ(1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、元王朝の初代皇帝(大ハーン)。

その即位にあたる内紛からモンゴル帝国は皇帝であるカアン (Qa'an) を頂点とする緩やかな連合体となり解体が進んだ。帝国の南北分裂の原因となった弟のアリクブケとの権力闘争に勝利したクビライは、帝国の中心をモンゴル高原のカラコルムから中国の大都(現在の北京)に移動させるなど様々な改革を打ち出した。クビライの代以降、カアンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に東アジアを支配する元王朝(大元国)に変貌した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/クビライ
YuanEmperorAlbumKhubilaiPortrait

48: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)00:05:22 ID:EHb
マジで騎馬民族なら海に突き当たった時点で満足しろや
馬さん泳がれへんやろが

62: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)01:05:49 ID:AdJ
>>48
船作れる国が他にあるからなあ
造船と操船はそいつらにやらせればええ思ったんやない?
お馬さんは船に乗せていけばええし

50: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)00:07:55 ID:9Rv
実際当時の日本って痩せた山と谷ばっかりの土地に野蛮人だらけで大した利益にならんかったろうな

66: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)02:16:25 ID:o9T
>>50
金銀硫黄がザックザック

63: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)01:07:34 ID:CmV
実際当時の技術で四方を海に囲まれた島国攻め落とすとか可能やったんやろか
城攻め三倍どころの話しちゃう気がするんやが
詳しい人はどう考えとるんやろな

64: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)01:15:12 ID:AdJ
>>63
日本の場合、弘安の役の14万人でも当時の日本の動員能力を下回るから、
例え台風が来なくて遅れた南宋軍込みで日本軍と激突しても、
この頃には鎌倉など他からの援軍も合わせたら日本軍の方が数でも優勢になってただろうし、
これ以上の大軍を送るのは、南宋を手に入れた後の元であっても難しいから無理やったと思う
元にいくら大軍があっても、日本に運ぶための船が用意できんと渡海はできんからな

71: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)04:09:29 ID:vj2
時系列やとこれやからなあ
国書の内容が友好的やったとしてもただのポーズやろな

・使者派遣~第一次元寇~使者処刑までの順番まとめ
1266年8月 一回目の使者・黑的、殷弘が選ばれ、高麗経由で日本に行くが途中で引き返す
1267年6月 クビライは再び黑的、殷弘に日本行きを命じる
1267年9月 高麗王は「海路は危険なので皇帝の使者が行かなくても」と自分の側近の潘阜を二回目の使者として派遣する
1267年1月 大宰府に潘阜が到着、クビライの国書「大蒙古国皇帝奉」を日本に届ける
1268年5月 クビライが「朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ」と発言
1268年7月、潘阜が高麗に帰国、日本からの返書はなし
1268年10月 クビライが「或いは宋、或いは日本、命に逆らえば征討す」と発言
1268年12月 黑的、殷弘が三回目の使者として日本に向かうも、対馬で拒まれ引き返す
1269年6月 四回目の使者・高麗人の金有成が来日、国書を届けて大宰府に長期滞在するが日本からの返書はなし(金有成は弘安の役後の十二回目使節)
1269年12月 五回目の使者、元の秘書監の趙良弼が派遣され国書を届ける
1271年9月 返書はなかったが趙良弼は弥四郎ら使節団を連れて帰国
1273年6月 趙良弼が六回目の使者として再来日、大宰府まで来るが帰国する
1274年10月 第一次元寇・文永の役

72: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)04:12:16 ID:3bc
チンギス・ハンとかいう世界最大のチートなのに他の人よりも評価が低い謎のお方

82: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)11:07:12 ID:kkP
>>72
まあ領土広げたいうことは侵略された国も多いわけやしな

75: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)05:37:35 ID:ADn
元の通貨が銀やったけど銀が足りなかったみたいやな
ほんで日本は金の生産国やし金があるなら銀もあるやろって事で攻めてきたみたいやな

76: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)05:38:39 ID:9uI
チンギスって一代でホラズムまで滅ぼしたの?
やべぇな

79: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)10:56:32 ID:kkP
>>76
フビライも前々から攻めてたとはいえ南宋滅ぼしてるしなあ
統治面といい結構有能な君主のはすせなんやけど元寇はなんでやらかしたのか
そら銀も硫黄もあるけどコストに釣り合わん

85: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)12:00:18 ID:flq
>>79
そらあそこまでクソデカ帝国築き上げたんやから 日本とかいうの邪魔やなw となるのは自然な流れやろ

86: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)12:01:03 ID:n1T
>>85
いうても日本なんか大陸から離れたぼっち国家やし
放置しても元に敵対することはなかったんちゃう?

89: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)12:03:41 ID:flq
>>86
そういう利益的なものではないと思う

94: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)12:12:42 ID:K2H
>>86
日本に喧嘩うったときは元も不安定やったからな
元の敵と手を組んで攻められたら困るから先に潰しにかかったって説がある

100: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)12:54:59 ID:dlc
>>94
むしろ弘安の役の大損害と三回目(中止した)のための造船の負担が
後の反乱など国内不安の原因になったって説もあるから、
日本と喧嘩したことでかえって不安定にしてへんかな
それでも反乱制圧するくらいには力あったが

91: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)12:04:36 ID:dSf
フビライて現地どういう評価
帝国滅ぼした暗君とか言われてんの?

92: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)12:05:38 ID:5uT
>>91
元いちの名君やぞ

93: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)12:10:11 ID:n1T
>>91
帝国は別に滅んでない
むしろフビライは総合的には帝国を大きく発展させたし領土も広げた
日本遠征は失敗して大損害だしたけど、それ含めても総合的には有能な方
元の衰退はもっと後

97: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)12:16:42 ID:vxo
結局、日本への第三回遠征がままならんかったのは
属州の反乱とかが多すぎたからやなかったっけ?

102: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)12:58:27 ID:dlc
>>97
あと丁度三回目の元寇準備中にベトナムと開戦した

98: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)12:17:08 ID:K2H
まあ二回連続海に沈んだらやる気なくすやろ

96: 名無しさん@おーぷん 20/06/18(木)12:15:21 ID:p9C
フビライ死んだ後も元からは関係改善の使者とか来てたけど全部追い返してたんよな
元との貿易ちゃんと出来てれば歴史はちょっと変わってたかもしれない



引用元: ・https://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1592396961/