1: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:12:36 ID:AZI
カリギュラとかヘリオガバルスとか紂王みたいな
酒池肉林系の暴君は1人もおらん気がする
発達障害っぽい暗君は浅野内匠頭くらいか

カリグラ
ガイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(12年8月31日 - 41年1月24日)は、第3代ローマ帝国皇帝(在位:37年 - 41年)。ユリウス・クラウディウス朝の皇帝の1人である。
その治世を通じてローマ市民からは人気が高かったが、現存する後代の史料ではいずれも、カリグラは狂気じみた独裁者であり、残忍で浪費癖や性的倒錯の持ち主であったとしている。しかし現存する一次史料の数は少なく、カリグラの治世の実態には不明な点が多い。

https://ja.wikipedia.org/wiki/カリグラ

Gaius Caesar Caligula

ヘリオガバルス
マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス(203年3月20日 - 222年3月11日)は、ローマ帝国第23代皇帝で、セウェルス朝の第3代当主。彼の統治はしばしば今までも登場した暴君達の悪名すらも越える、ローマ史上最悪の君主として記憶されることとなった。ヘリオガバルスは放縦と奢侈に興じ、きわめて退廃的な性生活に耽溺し、しかもその性癖は倒錯的で常軌を逸したものであった。また、宗教面でも従来の慣習や制度を全て無視してエル・ガバルを主神とするなど極端な政策を行った。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ヘリオガバルス

Bust of Elagabalus - Palazzo Nuovo - Musei Capitolini - Rome 2016 (2)


帝辛
帝辛(ていしん、紀元前1100年ごろ)は、殷の第30代(最後の)王。周の武王に滅ぼされた。史書では悪評が高い。酒池肉林の名で知られる放蕩や暴政が記されており、『史記集解』には「義を残(そこ)ない、善を損なうを紂と曰う」と記されるなど、後世に暴君の代名詞となった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/帝辛

絵本三国妖婦伝 殷紂王


浅野長矩
浅野 長矩(あさの ながのり)は、播磨赤穂藩の第3代藩主。官位は従五位下・内匠頭。官名から浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)と呼称されることが多い。赤穂事件を演劇化した作品群『忠臣蔵』を通じて有名である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/浅野長矩

Naganori Asano


2: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:13:25 ID:ayT
宮女にいたずらしようとして自分が転んで死んだ天皇おるで

4: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:13:59 ID:AZI
>>2
四条天皇はただの不幸な事故やろ…

四条天皇

四条天皇(1231年3月17日〈寛喜3年2月12日〉- 1242年2月10日〈仁治3年1月9日〉)は、日本の第87代天皇(在位:1232年11月17日〈貞永元年10月4日〉- 1242年2月10日〈仁治3年1月9日〉)。

崩御については、幼い天皇が近習の人や女房たちを転ばせて楽しもうと試みて御所の廊下に滑石を撒いたところ、誤って自ら転倒したことが直接の原因になったという。突然の崩御を不可思議に思う者が少なくなかったようで、巷では後鳥羽上皇の怨霊や慈円の祟りによるものとの噂が立った。死因を脳挫傷とする憶説もある。右大臣であった九条忠家とは同年配で、騒々しいほどの遊びばかりで朝夕をともに過ごしていた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/四条天皇

Emperor Shijō


5: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:14:08 ID:ZWC
松倉勝家!

松倉勝家
松倉 勝家(まつくら かついえ)は、江戸時代前期の大名。肥前島原藩2代藩主。領国に悪政を敷き、島原の乱を引き起こした。乱の鎮定後は江戸幕府に領国経営失敗と反乱惹起を問責され、大名としては異例の斬首刑に処された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/松倉勝家


10: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:15:52 ID:AZI
>>5
大名としての格を上げるために4万石の石高を10万石と偽って申告して
10万石分の年貢徴収して島原の乱誘発したんやっけ?
なんか日本人らしいアホさやな

7: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:15:31 ID:ayT
日本書紀は、武烈天皇の異常な行為を記している。その部分を以下に列挙する。

二年の秋九月に、孕婦の腹を割きて其の胎を観す。
三年の冬十月に、人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう。
四年の夏四月に、人の頭髪を抜きて、梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、昇れる者を落死すことを快としたまふ。
五年の夏六月に、人を塘の樋に伏せ入らしめ、外に流出づるを、三刃の矛を持ちて、刺殺すことを快としたまふ。
七年の春二月に、人を樹に昇らしめ、弓を以ちて射墜として咲いたまふ。
八年の春三月に、女をひたはだかにして、平板の上に坐ゑ、馬を牽きて前に就して遊牝せしむ。女の不浄を観るときに、湿へる者は殺し、湿はざる者は没めて官やつことし、此を以ちて楽としたまふ。

武烈天皇
武烈天皇(仁賢天皇2年 - 武烈天皇8年12月8日)は、日本の第25代天皇(在位:仁賢天皇11年12月 - 武烈天皇8年12月8日)。暴君として伝えられているが、実在した人物かどうかについては議論がある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/武烈天皇


12: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:16:30 ID:AZI
>>7
武烈天皇はめっちゃ脚色臭を感じる

13: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:17:05 ID:Hy5
>>12
そんなん言うたら紂王とかもせやろ

8: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:15:38 ID:Hy5
足利義教「よっしゃワイは許されたな!」

足利義教
足利 義教(あしかが よしのり)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の子。義教は苛烈な側面を有しており、些細なことで厳しい処断を行った。

https://ja.wikipedia.org/wiki/足利義教

Ashikaga Yoshinori cropped


15: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:17:55 ID:AZI
>>8
悪将軍とか言うわりに侍女にキレたみたいなしょぼいエピソードしかない人

22: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:20:15 ID:Hy5
>>15
坊主焼き殺してるしその噂しただけの町人ぶっ殺してんだよなあ

21: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:19:38 ID:hZc
紂王はある意味全盛期を築いたからな
ある程度の権力基盤があってこそ暴君でいられるんや

24: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:21:16 ID:NU2
妊婦の腹を生きたまま掻っ捌いたとか
人を釜で茹で殺したとか

古今東西よくある話やん
全王朝の悪逆っぷりを広めて、正当性もたせたいからだろうが

30: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:26:02 ID:AZI
>>24
妊婦の腹切るのが世界中で暴君テンプレになってるのってそれが人間の想像力の限界ってことやろか?

27: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:22:00 ID:hZc
武田信玄のパッパとか暴君やったらしいな
なお息子よりも長生きした模様

33: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:28:59 ID:AZI
>>27
信虎はむしろ最近では名君説もあるよな
むしろ武田信玄が父親の貯金食いつぶした2代目みたいな

29: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:25:45 ID:2Ng
気に食わない”上”はぶっ殺して終わりやからな
昔は

34: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:30:18 ID:Neb
地方レベルでいくらでもいたんちゃうか?
数よりも質を追求したら歴史に残ってるのよりヤバい奴いそう
日本に限った話じゃないけど

36: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:35:42 ID:AZI
>>34
家臣の嫁寝とったとかそういう陰湿スケベ親父エピソードはわりとあるわね

41: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:46:36 ID:AZI
日本人で一番酒池肉林に近いことやったのは誰なんやろな?

42: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:52:54 ID:EZw
修羅の国過ぎて記録が残ってないのかも。
うろ覚えなんやが江戸時代に整備されて武士は食わねど高楊枝って倫理観が成立した。戦国まではそこらへんの人を殺しても何が問題なの?って考えだって大学で教わったわ。
こんな状態だから、江戸時代以降ではぶっとんだやつでも当時は普通だから記録に残すまでもないだろってパターンあったかもね。
かなり昔に教わったから文献とか覚えてないんだが

43: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:55:17 ID:AZI
>>42
江戸時代だと無礼討ちした武士は基本自分も切腹やったらしいけど
戦国以前だと無礼討ちはふつうなんやろね

44: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:56:29 ID:AZI
駿河大納言忠長はわりと日本史では珍しいくらいの暴君やろか?
御前試合は創作やけど

徳川忠長

徳川 忠長(とくがわ ただなが)は、江戸時代前期の大名。極位極官が従二位大納言で、領地が主に駿河国だったことから、通称は駿河大納言(するがだいなごん)。徳川家康の孫にあたる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/徳川忠長

Tokugawa Tadanaga


45: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:58:22 ID:EZw
無礼って概念があったかも疑問かもね。
ない知恵絞っても秀吉の末期くらいしか浮かばない。

47: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:59:30 ID:AZI
>>45
秀吉の最期はかなり老害に描かれるよな
殺生関白って言われて切腹させられた関白秀次も濡れ衣っぽいしね

46: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)01:58:59 ID:kSp
忠長はやばいわ

49: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)02:01:48 ID:AZI
>>46
忠長は殺生禁断の浅間山で猿1200頭殺すとか狂気の沙汰よな

54: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)02:03:25 ID:0JC
年貢税率 ベスト3
1位 ニ公八民(定免法) 北条氏政 北条家本領
2位 三公七民(検見法) 北条氏康 北条家全領
3位 三公七民(定免法) 一条兼定 土佐中村

年貢税率ワースト3
1位 九公一民(定免法) 島原藩 松倉氏
2位 八公ニ民(定免法) 津山藩 森忠政(鬼武蔵の末弟)
3位 八公ニ民(検見法) 島津藩

免税 本願寺 ただしお布施として財産と生命は緊急時に本願寺の管理下に

55: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)02:05:22 ID:AZI
>>54
九公一民はマジで酷すぎやが
島津も鬼武蔵も酷いな
さつま芋しか食えんわ

57: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)02:07:49 ID:AZI
収穫高から毎年の年貢率決めるのが検見法で
一定の年貢率をとれ高に限らず課すのが定免法やっけな

58: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)02:08:25 ID:EZw
あとは大内義隆とか今川氏真って政務放り出して遊んでたって聞くけど、ヤバいことやってたのかただの浪費なのか

大内義隆
大内 義隆(おおうち よしたか)は、戦国時代の武将、守護大名・戦国大名。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めた。また義隆の時代には大内文化が爛熟し、西国の地方政権大内政権を築いて大内家は領土的に全盛期を迎えたが、文治政治に不満を抱いた一族でもある家臣の陶隆房に謀反を起こされ、義隆と一族は自害して、大内家は事実上滅亡した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/大内義隆

Ōuchi Yoshitaka

今川氏真
今川 氏真(いまがわ うじざね)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、戦国大名、文化人。松平定信が随筆『閑なるあまり』の中で「日本治りたりとても、油断するは東山義政の茶湯、大内義隆の学問、今川氏真の歌道ぞ」と記しているように、江戸時代中期以降に書かれた文献の中では、和歌や蹴鞠といった娯楽に溺れ国を滅ぼした人物として描かれていることが多い。

https://ja.wikipedia.org/wiki/今川氏真

今川氏真像(個人像)


61: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)02:11:45 ID:AZI
>>58
氏真は最終的に旗本として家名残すから
そこまで暗君ってほどでも
それと北条から嫁いできたヨッメが有能なんよね

59: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)02:09:51 ID:cn8
田沼はんの重商路線を台無しにした定信くん
なにげに暗君やない?

松平定信
松平 定信(まつだいら さだのぶ)は、江戸時代中期の大名、老中。陸奥国白河藩3代藩主。定信は田沼の政策の経済政策をことごとく覆したとしばし言われるが、しかし近年では田沼政権との連続面があったことも重視される。

https://ja.wikipedia.org/wiki/松平定信

Matsudaira Sadanobu


64: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)02:16:11 ID:AZI
>>59
未だに緊縮派っておるし…
当時としては不況時の倹約が有効だと思われてたんやから暗君っていうのはどうかと

65: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)02:19:13 ID:AZI
田沼意次の息子が江戸城内で刺殺されてるのは陰謀感じるわ
田沼側が家系図を盗んだことに対する怨恨が直接の動機らしいけど

67: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)02:21:03 ID:YVc
精々戦国時代か江戸の子作り殿位やろ

徳川家斉
徳川 家斉(とくがわ いえなり)は、江戸幕府の第11代征夷大将軍(在任:1787年 - 1837年)。特定されるだけで16人の妻妾を持ち、男子26人・女子27人を儲けたが、成年まで生きたのは半分(28名)だったと言われる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/徳川家斉

Tokugawa Ienari


71: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)02:26:26 ID:AZI
>>67
江戸の子作り将軍は家斉か
16人の妻妾持ちで男子26人女子27人は当時でもレジェンドよな
大名家の養子にする費用で幕府傾いたらしい

68: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)02:21:28 ID:FYr
あれ
島原藩のあいつ

69: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)02:22:46 ID:kSp
島原藩のあいつはやばいわ

74: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)02:29:55 ID:AZI
>>68
>>69
島原藩主は江戸時代の大名唯一の切腹じゃなくて斬首ってだけでヤバさがわかる

松平忠恕 (島原藩主)
松平 忠恕(まつだいら ただひろ)は、江戸時代中期の大名。下野国宇都宮藩2代藩主、のち肥前国島原藩初代藩主。島原藩深溝松平家7代。
忠恕が家督を継承後、深溝松平家は島原藩から宇都宮藩への引越しで約6万8500両の費用がかかって財政が困窮していたため、豪商から御用金を借り、家臣の俸給を借り上げて幕府から借用したりもしたが一時しのぎにしかならず、明和元年(1764年)に忠恕は百姓に増税を申し付けたため、9月12日に籾摺騒動と称される農民一揆が起こった。この一揆を忠恕は藩兵300人をもって武力で鎮圧。一揆の首謀者を逮捕処刑した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/松平忠恕 (島原藩主)


70: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)02:23:25 ID:FYr
江戸時代になると暗君はいても暴君は誕生しにくいな
やりすぎると改易になるもの

73: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)02:29:08 ID:cn8
信長の次男三男がもう少し有能やったら日本史ずいぶん違ってたイメージ

81: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)02:36:31 ID:AZI
>>73
信孝はわりと有能やないの?
母親の身分が低かったから序列低かっただけやし
それに信雄も無難に戦国生き残ってるよな

76: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)02:33:04 ID:UYt
あとは伊達政宗とか島津忠恒が割とやばい感じか

伊達政宗
伊達 政宗は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。幼少時に患った疱瘡により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/伊達政宗

Date Masamune02

島津忠恒
島津 忠恒(しまづ ただつね)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将、外様大名。薩摩藩初代藩主。

https://ja.wikipedia.org/wiki/島津忠恒

Shimazu Tadatsune


82: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)02:37:22 ID:FYr
>>76
忠恒って言うほどやばいん?
関ヶ原の戦後処理とか琉球方面への領土拡大とかよくやってると思うが

84: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)02:39:18 ID:FYr
適材適所もあるわね
三成なんかも上に立つ人間じゃなかった

石田三成
石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。
豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/石田三成

Ishida Mitsunari

90: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)02:45:56 ID:IX7
孫の嫁孕ませたなんとか上皇は?

94: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)02:47:50 ID:AZI
>>90
白河法皇のスケベじじいっぷり嫌いやわ

白河天皇
白河天皇(1053年7月7日〈天喜元年6月19日)〉-1129年7月24日〈大治4年7月7日〉)は、日本の第72代天皇(在位:1073年1月18日〈延久4年12月8日〉- 1087年1月3日〈応徳3年11月26日〉)。奔放な女性関係と併せて男色も好む傾向があり、近臣として権勢を誇った藤原宗通、あるいは北面武士の藤原盛重、平為俊はいずれも男色関係における愛人出身といわれる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/白河天皇

Emperor Shirakawa


108: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)03:02:23 ID:jDP
信長も実際ゆうほど暴君どころか
優しいしなあ

110: 名無しさん@おーぷん 19/11/20(水)03:09:36 ID:AZI
>>108
信長は戦国大名でも優しい方よな
稲生の戦いで敵方やった柴田勝家や林を許して重用してるし
信行も助命してるしね

織田信長
織田 信長(1534年-1582年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名、天下人。政策面では、信長は室町幕府将軍から「天下」を委任されるという形で自らの政権を築いた。天皇や朝廷に対しては協調的な姿勢を取っていたという見方が有力となっている。

江戸時代には、新井白石らが信長の残虐性を強く非難したように、信長の評価は低かった。とはいえ、やがて信長は勤王家として称賛されるようになり、明治時代には神として祀られている。第二次世界大戦後には、信長はその政策の新しさから、革新者として評価されるようになった。しかし、このような革新者としての信長像には疑義が呈されつつあり、2010年代の歴史学界では、信長の評価の見直しが進んでいる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/織田信長

Oda-Nobunaga

元スレ:https://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1574179956/